情報の信頼性について
歴史を勉強していると、ときどきふと思うことがあります。
歴史について書かれた教科書や書籍、サイトなどにある情報は本当に正しいものなのかな、と。
みんなはそう言ってるんだから正しいんだろう、と思ってしまいがちだけど、
私自身はその情報のソースを実際に見たわけではないし、
自分でちゃんと納得してその情報を信頼しているわけではないはずなのです。
神話みたいに語り継がれてきた誰かが作ったストーリーに過ぎないのかもしれない、と。
情報としての歴史の信頼性
誰でも世界へ向けて情報を簡単に発信できるようになった現代、
情報の正確さ・信頼性を自ら見極めることは、非常に重要になっています。
しかし、その重要性は人が言葉を持つようになってからずっと存在し続けたはずです。
現代のコミュニケーションというのは、相手の顔が見えないし匿名で発信できるので、
情報を発信する際に発信者が持っている責任感というのは薄くなっている。
無責任で信頼性に乏しい情報が増える分、受信者側が気をつけなければならない機会も増えたため、重要性が増したと言われています。
しかし大昔の時代、顔が見え名前を知る関係であっても、言葉が常に真実のみを伝え続けてきたわけではないはずです。
今歴史として受け継がれている情報は、誰かが口から語ったものなのかもしれないし、誰かが手で書き残したものかもしれない。
そういうものが全て真実であるということはあり得なくて、意図的に間違った情報を伝えたり誇張したりしたのかもしれないし、
そういうつもりがなくても記憶が曖昧だったので真実とずれた情報が伝わってしまったこともあったのかもしれません。
邪馬台国の所在地の話
2世紀~3世紀に日本列島にあったとされる国のひとつである邪馬台国は、その所在地について論争があります。
それは邪馬台国の位置を示した書物に記された通りにたどっていくと海の真ん中に行きつくからです。
それはおかしいということで、情報の解釈の仕方を変えることで対応しているようです。
この事実からおそらく言えることは、
発信者の情報が曖昧であると情報の正確性が保たれない可能性がある
受信者の解釈によっては情報の正確性が保たれない可能性がある
邪馬台国の場合、海のど真ん中にあるのはおかしいとわかったからまだよかったけれど、
- 情報にいっさい違和感が無ければ元の情報が誤りだったとしても真実として受け入れられる可能性がある
ということです。
個人の記憶の信頼性
歴史は人類の記憶、共有された記憶ですが、
その全体を構成する個人の記憶についても不思議だと思うことがあります。
誰にも共有されない最もプライベートな記憶については、本人がそれを真実だと言うこと以外に、それが真実だという精神的な裏付けが存在しないのです。
つまり、それが真実であるかどうかではなく、それを真実だと思っているかどうかが大事なのです。
それは記憶を共有する相手がいても同じことです。
そう考えると、記憶を支えているものはかなり脆弱なように思えます。
「他人が正しいと言えばそれは正しい」
結局のところ、情報の信頼性として用いられる指標のひとつに成り得るのは、
正しいと言う人が多い
正しいと言う人が偉い
ということです。
両者ともほとんどの場合合理的であると言えます。
前者については
の文脈でも、そのサイトへのリンクが多いサイトの情報は信頼できるために評価が上がると言われています。ただし、「多数派=正解」とは限りません。
それに、多いというのは特定のグループの中で多いだけであって、もう少し範囲が広がればむしろ少数派であることもあり得ます。
後者は、専門家や社会的な地位が高い人が言うことは間違いないと思いがちというものです。
私は新型コロナウイルスを顕微鏡を使って自分の目で見てその存在を確認したわけではありませんが、
偉い人がみんなそう言うからぼんやりとあるんだなと思っています。
ただ、これも絶対的に信用していい指標ではないということは、
元NASDAQ会長 Bernard Lawrence Madoff の事例も示しています。
絶対に信頼できる情報なんて存在しないのかもしれないな、なんて思ったのでした。
お読みいただきありがとうございました。
では