反多様性は多様性に入りますか?

 

最近は多様性という概念が浸透してきて、多くの人が多様性という言葉を持ち出すようになりました。

伝言ゲームみたいに意味が変わって、人によって「多様性」の意味が違うというような状態になってしまっているようです。

ここでは「多様性」の意味について、そして

多様性は、多様性を否定する立場を、多様性として認めることができるのかという問題について考えていきます。


「多様性」の多様性

多様性とは、

いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。

という意味です。

これ自体は実に中立的で否定しようのないことです。


ところが「多様性を認める」ということになると、

A さんの認める多様性と B さんの認める多様性に差異が出てきます。

個々人が、「いろいろな種類や傾向のもの」の中からどれを認めるかに違いがあるからです。

A さんは「これとこれとこれこれは認めるけど、これは認めない」、

B さんは「これとそれとあれこれは認めるけど、それは認めない」、

結果、「多様性の押しつけ」という現象が発生するようです。

結局のところ、「多様性」が単なる「個々人の許容するものリスト」みたいな意味合いになっていることがあります。


個々人の(スペシフィックな)「多様性」とは別に、社会の共通認識としての(もっとユニバーサルな)多様性があります。

社会は個人の集まりであるため、このより普遍的な多様性は個々人の「多様性」の公倍数であり、

もちろん特定の多様性のいずれかと一致するものではありません。

「多様性を認めましょう」というときの多様性とはもちろん普遍的な多様性でなければなりません。

多様性について他者と議論するときには、普遍的な多様性のほうについて議論していることに注意する必要があります。

でなければそれは言葉の行き違いが生じて不毛な議論となります。

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寛容のパラドックス

多様性を否定することを多様性として受け入れるべきかという問題と似たような問題に寛容のパラドックスがあります。

ポパーによれば、

もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊される

寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない

(Wikipedia より引用)

つまり、完全に寛容な社会というのは存在しえないということです。

同じように、自由な社会が自由を奪おうとする自由を認めるわけにはいきませんし、多様性も同じことです。

もし多様性を脅かすものを多様性として許容してしまえば、多様性は自己崩壊してしまいます。

そのような全てを受け入れるような「多様性」はそもそも存立することができないのです。


これは寛容や自由にもいえることですが、窃盗や殺人や差別などまですべてを認めるということは現実的ではありません。

多様性はあくまで「多」であって「全」ではない(「全」はありえない)ので、

多様性が反多様性をはじめとするいくつかのものを排斥したとしても、なんら矛盾はなく

それは自分に対して攻撃をしかけてきた者に対する正当防衛だといえます。

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読んでくれてありがとうございました。

では👋